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「嫌われる勇気」岸見一郎・古賀史健 自分で人生をコントロールする

 自分の人生は自分でコントロールできて当然。そのはずなんですが、人は一人で生きている訳ではなく、一人では生きられないし、一人でない方が楽しいので、様々な対人関係の中で生きることになります。「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」。本書の中で青年と対話する哲人が言いますが、そうであれば、誰もが多かれ少なかれ、悩みを抱えているんでしょうね。

 この本は時間を空けて3回読んだんですが、自分の理解度にも、明らかに差のある3段階があったようです。まずは「わかるわかる、あの人はこういう考え方するよな、この本読んで考え直してほしいよ」という感じ。知識にしかなっていない、自分事になってないので、実生活には当然なーんにも変化は起きませんでした。次に、「あの人の発言は、こういう目的があってのことなんだから、自分はこう対応しなきゃいけないや」という理解。主語が自分に変わったものの、リアクションの勉強を机上でしたようなもんで、人生に変化を起こせるほどに身に付く訳もありません。3度目に読んだのは、すごく怒りに燃えてる時だったんですが、「あ、自分が怒っているのも、こういう目的があって怒ってるんだ、俺自身の振る舞いを変えることで、状況を変えることが出来るかもしれない」と、気づきがありました。

 この本のどこが響くかは人それぞれでしょうが、本気で自分を変えようと思えた時、自分の人生を自分でコントロールするための、インパクトをもたらすのではないかと思います。

 

 本書は哲人と青年の対話形式で、青年がアドラー心理学を自分事として理解するまでのやり取りが進むのですが、まず哲人は、人の振る舞いには、必ず原因ではなく、目的がある、と言います。

彼が引きこもっている背景には、なにかしらの理由がある。でなければ、説明がつかないでしょう! 哲人 ええ、たしかに説明がつきません。そこでアドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えます。 青年 いまの目的? 哲人 ご友人は「不安だから、外に出られない」のではありません。順番は逆で「外に出たくないから、不安という感情をつくり出している」と考えるのです。

いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック——いわゆるトラウマ——に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである 。

われわれは過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものであり、自分がどう生きるかを選ぶのは自分なのです。

不満はあるでしょうし、幸福というわけではないでしょう。しかし、彼が「目的」に沿った行動をとっていることは間違いありません。彼にかぎった話ではなく、われわれはみな、なにかしらの「目的」に沿って生きている。それが目的論です。

 目的論を説明するための「引きこもり」の例は、説明としては分かりやすかったです。自分はたまたま引きこもったことがないので、きっとそうなんだろうなと。改めて自分の理解の深さを考えると、そういう安易な納得感だった気がします。

 一方、下記も頭では理解していたつもりでしたが、それが相手のことではなく、自分のことなんだ、と思いいたらず、思い至ったあとも飲み下すのは少々苦かったです。

あなたは「怒りに駆られて、大声を出した」のではない。ひとえに「大声を出すために、怒った」のです。つまり、大声を出すという目的をかなえるために、怒りの感情をつくりあげたのです。

言葉で説明する手順を面倒に感じ、無抵抗な相手を、より安直な手段で屈服させようとした。その道具として、怒りの感情を使ったのです。

怒りとは出し入れ可能な「道具」なのです。

これが相手の事であるのもしかり、そして自分の事でもあるんだと思い至り、苦いながらも飲み下すことが出来たのは、別の本(EQ 2.0)での気づきがあったおかげかもしれません。

 哲人にこう言われた青年も飲み下せずに、哲人に食い下がります。

先生は「人は怒りの感情を捏造する」とおっしゃいましたね? 目的論の立場で考えるとそうなるのだ、と。わたしはいまだにあの言葉が納得できません。たとえば、社会に対する怒り、政治に対する怒りなどの場合はどう説明されます? これもまた、自らの主張を押し通すために捏造された感情だといえますか?

 それに対して哲人は対話を続けます。

たしかに、社会的な問題に憤りを覚えることはあります。しかしそれは、突発的な感情ではなく、論理に基づく憤りでしょう。私的な怒り(私憤)と、社会の矛盾や不正に対する憤り(公憤)は種類が違います。私的な怒りは、すぐに冷める。一方の公憤は、長く継続する。私憤の発露としての怒りは、他者を屈服させるための道具にすぎません。

もしも面罵されたなら、その人の隠し持つ「目的」を考えるのです。直接的な面罵にかぎらず、相手の言動によって本気で腹が立ったときには、相手が「権力争い」を挑んできているのだと考えてください。

たとえば子どもは、いたずらなどによって大人をからかってみせることがあります。多くの場合、それは自分に注目を集めることを目的にしたもので、大人が本気で怒る直前に引っ込められます。しかし、もしもこちらが本気で怒るまでやめないのだとすれば、その目的は「闘うこと」そのものでしょう。 闘って、なにがしたいのか? 勝ちたいのです。勝つことによって、自らの力を証明したいのです。

その闘いを受けて立ったらどうなるのか。相手をやり込めたら、黙らせたらどうなるのか。それは「復讐」の段階です。いったんは引き下がったとしても、相手は別の場所、別のかたちで、なにかしらの復讐を画策し、報復行為に出ます。

そして対人関係が復讐の段階まで及んでしまうと、当事者同士による解決はほとんど不可能になります。そうならないためにも、権力争いを挑まれたときには、ぜったいに乗ってはならないのです。

 確かに、相手をやり込め、黙らせれば、その時は心の中で快哉を叫ぶこともあるでしょうし、しばらくの間、こちら側は平穏の中で暮らせるかもしれません。でも、実は相手側では休火山のようにマグマが湧いていて、ある時爆発する、復讐される。それはよく分かります。

 そうならないように、哲人は2つのことを教えてくれます。1つは「怒り」もコミュニケーションツールの一つなので、違うやり方を選ぶことが出来ること、もう1つは、主張の正しさの闘いが、対人関係の在り方の権力争いに陥りがちである「対人関係の罠」を避けることです。

相手が闘いを挑んできたら、そしてそれが権力争いだと察知したら、いち早く争いから降りる。相手のアクションに対してリアクションを返さない。われわれにできるのは、それだけです。

怒りをコントロールする、とは「我慢する」ことですよね? そうではなく、怒りという感情を使わないで済む方法を学びましょう。怒りとは、しょせん目的をかなえるための手段であり、道具なのですから。

まず理解していただきたいのは、怒りとはコミュニケーションの一形態であり、なおかつ怒りを使わないコミュニケーションは可能なのだ、という事実です。われわれは怒りを用いずとも意思の疎通はできるし、自分を受け入れてもらうことも可能なのです。それが経験的にわかってくれば、自然と怒りの感情も出なくなります。

権力争いについて、もうひとつ。いくら自分が正しいと思えた場合であっても、それを理由に相手を非難しないようにしましょう。ここは多くの人が陥る、対人関係の罠です。

人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。

わたしは正しい。すなわち相手は間違っている。そう思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移ってしまいます。つまり、「わたしは正しい」という確信が「この人は間違っている」との思い込みにつながり、最終的に「だからわたしは勝たねばならない」と勝ち負けを争ってしまう。これは完全なる権力争いでしょう。

そもそも主張の正しさは、勝ち負けとは関係ありません。あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。ところが、多くの人は権力争いに突入し、他者を屈服させようとする。だからこそ、「自分の誤りを認めること」を、そのまま「負けを認めること」と考えてしまうわけです。

誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これらはいずれも「負け」ではありません。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え